にほんごぱーく NIHONGO PARK

日本語とお散歩の記録です

なんとかこなした大学院生活

さて、今回は大学院生のころのお話です。

 

前回までのお話はこちらです。

1.日本語教師を目指したきっかけなんて…

2.日本語教師に近づいたころ

 

わたしは学部から大学院に進学しました。いわゆる内部生ですが、入試は通常通り受けて、合格をしました。日本語教育メインの研究科ではないですが、近い分野でした。

研究テーマは卒業論文からの続きでした。今も悪くはなかったとは思っています。でも、発表したり論文を投稿したりしていません。わたしはそういうことが苦手なのでした。

 

とにかく議論が苦手でした。なんかうまいことが言えない、浅いことしか言えない、みたいな感じでした。いろいろ考えているところで、急に「どう思う」と言われて困ったり、きちんと答えられなかったりしたことがトラウマになっていきました。(@_@;)

2年生になったころには、修士論文も本格的に書かねばならず、もう書き終えることだけに専念しました。やめるくらいなら、最低でも修士号は取ろうと思いました。

こんな私でも、先生はなぜか博士課程まで進むよう進言するわけです。でも、わたしはトラウマがこれ以上続くことを恐れ、それ以上進むのは辞めました。

博士号があれば、大学で日本語を教えることも可能ですし、仕事の幅が広がるも事実。それは大学院進学を決めたときからわかっていました。ただ、博士号が3年でとれるとは思えず、博士号があれば就職が安泰でもありません。自分の力不足が大きいですが、費用対効果が悪いとも思いました。(学振をとれるレベルにないし…)

 

大学院時代は、研究以外のことは充実していました!(^o^;)地域の日本語教室で教えたり、プライベートレッスンの仕事をしたり、教科書を作ったり……日本語を教えることに近いことは、お金が発生しようがしまいがいくらやっても苦痛に思うことはありませんでした。このころ、e-learningに触れる機会をもらったので、サイトを作ったり、メカ系に強くなったりしました。これだけでも、2年のモラトリアム期間の意義はあったな~と思います。

 

修士号取得までには苦難がありました。そのおかげで次の仕事へとつながっているので苦労した分の元はとれたと思います。満足いくものでも、高く評価されるものでも全然ありませんでしたが…。

 

今は発表したり、論文を書いたりすることは、よほどのことがなければしないことに決めています。やろうと思えばやれるぐらいの力は10年でついたかな~とは思いますが…(笑)それよりは、身近な教師や学習者がハッピーになることを考えていたいです。そういうところには、時間も労力も惜しみません。ひいてはそれが自分の幸せになるのです。( ̄▽ ̄)